織田信長と武田信玄の戦い、勝つのは・・・?



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天下統一まであと一歩まで上り詰めた織田信長と戦国最強と言われた武田の騎馬隊を率いた武田信玄。どちらの人気も高いのですが、もし両者が戦っていたらどちらが強かったのでしょうか?戦いの天才二人の真相に迫ります!

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織田信長と武田信玄がもし戦っていたら・・・

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よく歴史好きの間で交わされる言葉として「歴史にif(もし)はない」というものがありますが、それをどうしても考えてしまうものです。

特に戦国時代の織田信長武田信玄の戦いはまさに勃発直前まで緊張が高まっていながら、結局は武田信玄が病に倒れたことで実現しませんでした。

戦国最強の二人の武将、織田信長と武田信玄が戦っていたらどちらに軍配があがっていたのかというのはかなりキレイに意見がわかれる面白いトピックでもあります。

今回はそのあたりの周辺事実を整理しながらシュミレーションをしていきたいと思います。

元々戦国時代に活躍をしており実力者として有名だったのは圧倒的に武田信玄の方でした。そのころの織田信長はまだまだ尾張の小さな国の一大名であり、当時の武田信玄にとってはまさに眼中になしといった存在だったと思います。

しかし、有名な桶狭間の戦いをきっかけに織田信長は驚異的なスピードで戦力を伸ばし始め、一気にその名前を全国に轟かせました。

ただし、それでも当時は織田信長は武田信玄に対しては敵わないと思っていたようであり、父のように思っていますといった手紙を書くなど色々なゴマすりをすることで武田信玄の敵ではないことをアピールしていました。

武田信玄もそれに対してはまんざらでもなかったようで、織田信長に対しては友好国という表現を使っています。

ただしそのバランスが崩れてきたのが1571年ころ。
織田信長は自身の力によって将軍の座に就かせた足利義昭と仲が悪くなり、ついには足利義昭から信長の討伐を命じられます。

また当時信長が対立していた延暦寺や浅井・朝倉連合軍にも協力を要請されていたようで、どちらかというと気が乗らない戦いだったのだと思います。

それもあってか武田信玄はすぐに動いたわけではなく約1年後にようやく挙兵したかと思えば特に延暦寺や浅井朝倉連合の援軍に回るわけではなく、あくまで織田信長の領地でも重要度がそれほど高くない城を転々と落としてまわっています。

いわゆる牽制であり、ここには本心から織田信長を攻撃したいという意識が薄いように感じられますね。

(後半に続きます!)

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三方ヵ原の戦いから長篠の戦いまで

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武田信玄と織田信長は直接戦ったことはなかったのですが、武田信玄は徳川家康と直接対決をしています。

織田信長との友好関係を維持したいというような思いが見える行動をしていた武田信玄に何があったのでしょうか?

個人的な推測ですが、武田信玄の思いが変わったのはやはり織田信長の勢力拡大の勢いに対して危機感を持ったからではないかと思います。

今までゴマすりのかわいいヤツだった織田信長はいまや自分の勢力と同等かそれ以上になりつつあり、このまま放っておけば自分にも攻撃してくるのではないだろうか・・・

また、武田信玄はその時上杉謙信や北条氏との和睦で有る程度の基盤を維持しており、一方で織田信長はまだ延暦寺や周辺国との小競り合いで消耗していたタイミングでした。

織田信長の勢いを止めるにはここしかない。
そんな思惑があったように見て取れます。

1572年に本格的に兵力を3つに分け、遠江・三河・美濃への侵攻を開始します。
その先で直接にぶつかったのが徳川家康でした。

有名な三方ヵ原の戦いですね。

この戦いは圧倒的な兵力で武田信玄が勝利し、徳川家康は討ち死寸前まで追い詰められます。(この時の姿を絵に描かせたエピソードはご存知かと思います。)

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のっぴきならぬ状況にまで追い詰められた徳川家康は一か八かの賭けとして空城計を行います(城の門を全て開き、隙だらけに見せかける作戦)

その作戦は見事成功。空城に対して不信を抱いた武田勢力から時間を稼いだ徳川家康は見事に一命を取り留めます。

そして武田信玄は更に兵を進め、ついには徳川家康にとっての一つのポイントでもあった野田城を落とします。

が、これから本格的に徳川家康を追いこみ、その後ろにはターゲットの織田信長・・・というタイミングであえなく武田信玄は病気になってしまい撤退を余儀なくされてしまいました。

徳川家康やその背後に控えていた織田信長はまさに幸運だったというわけですね。
武田方はその後子供の武田勝頼が家督を継ぎますが、その間に徳川家康は勢力をとりもどし、巻き返しを成功させています。

同時に織田信長も周辺勢力及び、仏教勢力との戦いが落ち着いてきた時期であり、両者が満を辞して衝突したのが長篠の戦いです(歴史の教科書でも習いますよね)

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武田の騎馬隊を封じるために織田信長は柵と三列の鉄砲隊で応戦したというアレです。
(実際は諸説あり、この戦法はフィクションだという人もいますが)

どちらにせよこの戦いで武田軍は壊滅的な打撃を受け、後に武田家は滅亡してしまいます。
織田信長と徳川家康が勝利した理由はそのユニークな作戦もさることながらこの戦いに対して38,000もの勢力で臨むことができる体勢だったことが大きいと思います。

もとをいうと武田信玄が侵攻を始めたのは織田信長が周囲の勢力と戦っており、疲弊しているタイミングでした。それを好機とみて戦いを挑んだのです。

しかし武田勝頼は完全に体勢を整えた織田信長の勢力と真っ向から戦っており、武田信玄が侵攻した当時よりもはるかに強くなった上にコンディションも優れた相手と戦わなければなりませんでした。

武田信玄が侵攻した当時は織田信長が保有していた鉄砲はまだ1000丁くらいであったが、長篠の戦いの時には3000丁であったと言われています。

もし武田信玄がまだ生きていたならばこういった戦いはおそらくしていないでしょうし、ここまで大きくなる前の織田信長と戦うことができたと思われます。

武田信玄が生きており、野田城侵攻後にもどんどん戦いをできていればもしかしたら歴史はかわっていたかもしれませんね。

やはり何事もタイミングだなと思いますね。

 


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